インタビュー
自分で何とかする
宮川紫氏
2018年12月13日 277ページビュー 4年以上 アメリカ合衆国 大学「なぜ留学しようと思ったのですか?留学にいたる経緯は?」
小学生の頃、課外授業でJAICAの職員の方からJAICAのボランティア活動について体験談を聞きました。アフリカなど経済的な理由から学校に通えない子どもたちへ学習支援です。これを聞いて漠然と興味を持ちました。さらに中学3年の時の社会の先生が国連の活動をされており時々授業中に体験談を聞かせてくださいました。そして、私も徐々に将来世界の教育に恵まれない子供たちに学習支援をしたいと考えるようになりました。当時通っていた中学は、大学付属の中高一貫校でそのまま大学へ進学できましたが、大学は海外の大学に進む事を高校1年の時に決意しました。当時の高校の担任の先生は旦那さんが日本の大学で英語を教えていたので、その方の意見も踏まえ、「日本の大学を卒業してから留学してもいいのでは?」とアドバイスを頂いたのですが、それでは遅いと私自身は信じていたので、高校1年から着実に留学への準備を始めました。
「留学準備で苦労したこと、工夫したことは何ですか?」
具体的な留学の準備は日々の英語の勉強。毎日NHKラジオ講座を聞いたり、STUDENT TIMESを読んだり、英単語の勉強、週1回英会話スクール、TOFELの講座にも通いました。
中でも思い出深いのは、ヨルダンの17歳の学生とペンパルになり文通を2年間続けました。ヨルダンという遥か彼方のアラブの異国、兵役があり軍隊に行くため、毎月続いていた文通が終了しました。
留学希望の大学から資料を取り寄せ、入学手続きは全て自分で行いました。永田町か赤坂見附辺りに、アメリカ大学留学のための情報が集まっているオフィスがあり、各大学の情報を調べに行きました。その後も、STUDENT VISAの申請にアメリカ大使館に行くなど、準備する事が多く非常に大変でした。
「留学中に苦労したこと、工夫したことは何ですか?」
留学中、初めの1、2年は全ての事に苦労しました。最初のネブラスカ州の語学留学では日本人と韓国人ばかりで英語学校に2カ月間通いましたが、みんな片言しか英語が話せず、私自身最上級クラスから入ったのですが、英語が身に着いた感じはしませんでした。
その後、夏休み期間中2カ月ほどホームステイしました。ホストファミリは小学4年、2年、幼稚園の3人の子どもがおり、子ども達やおじさん、おばさんと生活し会話する事でアメリカ人の生活を学ぶ事が出来ました。おばさんは生まれて一度もネブラスカ州を出た事がなく、海も見た事ないと話してくれました。
9月になるとミズーリ州の女子大に通い始めました。由緒ある女子大で全米から学生が集まっていました。週末は隣町にある別の大学の学生とパーティが開かれ、まさに、映画に出てくるような大学生活でした。一方私は寮生活がとても寂しく、ひたすらタイピングの勉強を行いブラインドタッチをマスターしました。また、いきなり社会学、経済学、文学などを選択したため、読みものが多く辞書を片手に勉強ばかりしていたので、すっかり神経衰弱状態となり元気を失いました。そこで、12月にネブラスカ時代の友人とカリフォルニア州の短大へ転校しました。
ここまでは相当苦労した時期でしたが、その後転校先のカリフォルニアの短大はとても楽しくあっという間に卒業し、ニューヨークの4年生大学へ転校しました。単位は州をまたがるため半分くらい捨てる事になってしまいましたが、ニューヨークへ移住できる事で夢がいっぱいでした。アメリカでの生活に慣れてしまうと「自分で何とかする」、つまり交渉して切り開いてゆく力が付き、交渉する事でアメリカは自分を受け入れてくれる事がわかりました。
「留学前に不安だったことは?また、実際に留学に行ったら、どうでしたか?」
留学前に不安だった事は、「治安の悪さ」です。日本は当時バブル期でしたが、アメリカは「大失業時代」でホームレスが多く、「お金下さい、仕事下さい」とストリートで段ボールに書いたプラカードを持って立っている人々をよくみました。同時にストリートにはティーンエイジャーもあれており、貧困の中で学校に行けず、ドラックの売人や、強盗などをやっているこどもが多くいました。
また、治安の悪い地域は見た目にもすぐわかります。○○Stから△△Stへ移ると途端に町が荒れていており落書きやゴミが散乱しています。また、湾岸戦争、ロス暴動などもあり大変な時代にアメリカにいたのですが、卒業する94年頃から景気が良くなってきたことを肌で感じる事ができました。
つまり、不安だった事は実際その通りでしたので、夜は外出しない。治安の悪い地域にはいかない。を徹底しました。銃、ドラック、暴力の蔓延、離婚、貧困、教育格差などの非常に混乱した時代のアメリカをみました。「親の時代より豊かになれない時代」のアメリカの始まり。そして一方新しい産業である「IT時代」が到来していました。
「留学で得たものは何ですか?」
多くの海外の留学生と交流できたことです。ニューヨークではアメリカ人はみんな自分の学費を稼ぐために授業が終わると仕事に行っていたので、交流する時間がありませんでした。一方留学生はお互い情報交換したりして非常に仲良くなる事ができました。カリフォルニアの短大では、チェコ・スロバキアやソ連からの留学が多く、彼らは国の援助で留学していたのですが、週末はみんなで過ごし国の話を色々聞く事ができました。ニューヨークでは沢山の香港からの留学生と交流しました。彼らは、大学卒業後は、アメリカの大学院に進学していました。当時は、メールアドレスを個人で持っていなかったし、SNSも当然ないので、今はもう互いに音信不通となってしまいました。
「留学が帰国後のキャリアや人生にどう影響しましたか?」
キャリアの構築は留学とはまた別のスキルセットが必要となります。学生の頃と違い卒業後は自活して生きていきます。結婚、出産、育児、様々なイベントがあり、家族や自身の病気やリストラ、転職と更に多くの困難の中、キャリア形成を行う必要があります。
留学して語学が得意になる場合と、私の様に留学をしても語学が得意ではないケースがあります。留学してアメリカの大学を卒業する英語スキルと、通訳や翻訳者レベルの語学力を身につける事とは全く別のスキルです。
もし、今日の日本の大学が非常に留学生を多く受け入れており、英語教育にも力を入れているのであれば、海外留学経験は短期で良いと思います。もしくは短期の海外旅行で良いと思います。先日ある大手企業の役員と打ち合わせがあり、私の同僚がチリ出身なのですが、その役員の方も学生時代チリを1カ月かけて横断した経験があり非常に懐かしくその時の思い出を語っていました。留学イコール英語を使った仕事になる場合とそうでない場合がありますが、若い時に身に着けた国際的な感覚はその後のキャリアや人生に必ず生かされてくると思います。
「今後留学を目指す学生へアドバイスをください」
留学前には、自分で考える最大の準備をする事。そして留学した際には、どんどんいろんな人と話してください。今はネット社会なので私の時の様に手紙で日本の友人家族と連絡を取る時代ではないため、それほど寂しくないと思いますが、浅く広く色んな話をたくさんの人としてください。また、危険な所には決して近寄らないで下さい。騙す人が多くいるので、話は半分に聞いて下さい。長く付き合う中で本当の友人を見つけてください。自分の思い通りにならなくても、焦らないで下さい。色々な生き方がある事を学んでください。
インタビュー実施日:2018/07/15
インタビューアーからのコメント
「印象に残った言葉」
「自分で何とかする」、つまり交渉して切り開いてゆく力が付き、交渉する事でアメリカは自分を受け入れてくれる事
「お話を聞いて、感じたこと、学んだこと」
インタビュー内容を振りえってみて改めて感じたことは今から約30年前と現在の留学状況を比べると留学しやすい世の中になったと実感しました。30年前は留学は今ほど容易ではなかったと思います。しかし、現代では私の通っている東洋大学も含め留学に積極的で費用面に関してもスコアによって援助してくれたりするので非常に留学のしやすい世代だと感じました。また、インタビュー内容にも出てきたアメリカは自ら交渉していくことで自分を受け入れてくれるとあるがまさにその通りだと思います。
また、ここでいう交渉という言葉は積極性の事だと私は捉えました。日本の学生とはまた違った積極性の在り方でその背景には高い学費、様々な人種の友人関係、就職、社会問題、政治情勢等といった世界規模の様々な要因があります。また、アメリカの大学は留学生の数が世界でトップクラスであり教育に意欲的な学生が多いです。世界でもトップクラスの大学いわゆるアイビーリーグといわれる枠になってくると世界中から優秀な学生が集まってきます。また、日本の大学と比べると課題の量も異常なほど多いため
大学生活は卒業するまではとても過酷だと思います。ただ、そんな環境の中で大学生活を送ることで自然と力はついてくると思います。だから、改めて留学がしやすい世の中にはなったが、留学してからの生活がとても大切だと思いました。
インタビューアー:宮川熙之 (経営学部経営学科2学年)