留学のすすめ.jp

Invitation to Study Abroad

Disseminating the Impact of Study Abroad
Inter-generational Knowledge Transfer

特別インタビュー

留学は行くべし

 後藤 愛氏

[ プロフィール ]
一橋大学法学部出身。大学3年次から4年次にかけて、アメリカはペンシルバニア大学におよそ10か月の交換留学へ。大学卒業後は独立行政法人国際交流基金(ジャパンファウンデーション)に入社し、日米センター事業第一課(後の知的交流課)に配属。2008年ハーバード教育大学院教育学修士号(Ed.M)。幼児の母でありながら子連れでインドネシアに赴任しアシスタント・ディレクターとして文化交流に尽力。
 

‐海外に興味を持ち、留学を志すきっかけは、ある日見たニュース

後藤さん(以後:後):そもそもなぜ留学に興味を持ったのかということですが、大学受験をするにあたって、国際的なことがしたいという思いがあったんです。そのルーツは何かとさらにたどると、私が小学6年生の時に、皇太子さまの婚約発表の報道がありました。現在は皇后でおられる雅子様を見て、初めて外交官という仕事を知りました。外交官のような、女性が国際的に活躍できる仕事があるというのは、一つ大きな気づきだったと思います。
 
インタビュアー(以後:イ):当時から英語には興味があったということですか。
後:そうですね。学生の頃はまだインターネットがそんなに発展していなかったので、NHKの『ラジオ基礎英語』っていう、毎日夕方6時から20分位の番組を聞いていました。
イ :すごい!中学時代から・・!
後:ものすごく地味ですよね・・(笑)。あとは中学高校と、地道に学校の授業で勉強していました。
イ:大学に留学に行く前までの海外経験はどれくらいありましたか。
後:はじめて海外に出たのは、高校1年の春休みに家族旅行でグアムに行った時で、その次が高校2年の夏に一か月カナダに語学留学(ホームステイ)に行かせてもらった時、この2つです。
 

‐大学在学中の海外留学は戦略の取り方が大事?

後:大学受験の時、留学ができる大学に行きたいと考えていたので、複数大学に留学制度の有無を問い合わせました。聞いたところ、どうやら学部生の間に行ける大学は少なくて、大学院で研究するようになってから留学することはあるらしいと。その一方で一橋大学には既に先輩が通っていて、大学3年か4年次に奨学金をもらって留学にいくことができると聞いたので、一橋大学を選びました。
イ:大学を選ぶときから留学することを念頭においていたんですね。
後:大学に入学してからは、留学に行く際に推薦状を書いてくれる、また留学生を多く送り出している先生の授業やゼミに参加しようと考えていました。一橋の法学部の大芝亮先生が教鞭をとる国際関係論に興味を持ち、授業を受けました。本来その科目は3年生からしか取る事ができないところを、先生に相談して(熱意を買ってもらい)一年生ながら授業を受講させてもらったんです(笑)。
イ:つまり入学してからのマインドセットとしては、留学をすることをメインに、ゼミや授業を選んだのですか。
後:学内の選考にあたってGPAの平均を高くする必要があると聞いていたので、いい成績を取るのがあまりにも難しそうと思えた授業は外しました。やっぱり大学の講座っていろんなものがあって専門科目だと相当難しいものもありますから。でも簡単すぎる授業を取っても仕方がないとも思ったので、興味があって成績もちゃんと残す見込みのある授業に絞って履修し、単位のためだけという視点では取りませんでした。
イ:私も経済学は難しいからと思って選びませんでした。でもいざ留学に行くとなったら、結局international Business(国際経済学)の学部に入ることになって。基礎から英語で学ぶのに本当に苦労しましたね。日本語に訳してみても全く分からなかったです・・(笑)。
後:私はメインの留学に向けて必要な単位と知識が取れるものを取るようにしていました。私も、留学前に取っていた国際関係概論や経済学の授業を通じて、海外でも教えられている基本的な学術的セオリーを学ぶことができていました。おかげで留学先の授業で先生が言っていることの意味は同じだと気づくことができて助かりました。そういう戦略もありだと思いますね。
イ:留学先として、アメリカを選んだ理由は何でしたか。
後:沢山選択肢はありましたが、当時漠然と国際機関のような国際的な職場で働きたいという思いがあったので、いろんな人(移民・研究者・学生)が集まる国で学ぶのが一番成長できてよいだろうと思って、アメリカにしました。
イ:過去にホームステイを経験しているカナダは検討しなかったのですか。
後:そうですね。カナダも考えはしたけど、なぜだろうな。指導教授の大芝先生もアメリカで博士号を取っていたので、イメージが鮮明で(笑)。それから、アメリカは英語圏内でも勉強が一番大変だと聞いていたので、飛び込んでみようかなと。
イ:アメリカに留学に行くことが決まった時の心境や、準備としてそれまでに行ったことを教えてください。
後:授業を取ったほかには、大学1年の夏休みに親にお願いしてアメリカ・ボストンで1か月語学学校に通わせてもらいました。語学留学はスキルにはなるけど学位にはならない、専門留学の助走期間という認識だったので、いよいよ本当にアメリカの大学に入るという高揚感はありましたね。
イ:じゃあ不安よりは期待が大きかったのですか。
後:不安よりも、ワクワクと、現地でやっていけるかなという怖さはありました。今の様に現地情報の載ったウェブサイトもそれほどなかったので、大学の事務局に行って留学経験のあるOB/OGと繋げて頂き、留学前に、先輩方に地道に直接会いに行って、持ち物や準備すべきこと、寮の選び方等教えてもらいました。
イ:私のようにフィンランドの様なマイナーな国に行くとなると、大学の情報が全くなくて。むしろ日本語喋りたかったら自分で探しに行っていました。
 

‐多様性の国、アメリカならではの留学経験

イ:留学先の学部ではどんなことを学びましたか。
後:学部はいわゆるリベラルアーツ、教養学部に入りました。日本で学んでいた国際関係論の授業に加えて、フランス語と、政治哲学なんかを取っていました。
イ:留学先で取った授業の中で印象に残っているものはありますか。
後:一つ目は学部1年生が必修で取るライティングの授業です。教えてくれる先生がアメリカ人ではなくて、東欧から来た博士課程のティーチング・アシスタント(TA)でした。まず英語が母語ではない人が英語(外国語)で教えていることに結構驚いて。しかも当時の大学の方針として教材は白人でない人が書いたものを読むべきだという多文化主義的な理念から、学期を通じて多様な作品と作者にを扱うのですが、南米の活動家が書いた政治小説が題材にありました。日本ではなかなかないことですよね。他にも、女性同士の同性婚カップルの娘である女の子を「お母さんがふたり」と描いた絵本も扱うなど、ただの英語ライティングにとどまらない、実に多様で深い学びがありましたね。 
イ:アメリカならではの経験ですね。フィンランドにいるとほとんどフィンランド人、いわゆる白人しかいなくて。移民や難民を受け入れているはずですが、基本的に大学で関わることはないので見かけなかったです。フィンランド人か留学生で2極化していましたね。
後:その後授業で扱った題材の著者が講演会をすると知って、ニューヨークまでバスで2時間かけて聞きに行ったりもしました。人権活動家含め、世界中から色んな人が集まるのがアメリカの面白いところですよね。
後:二つ目は、ある先生と戦うことになった授業です(笑)。国際政治学だったんですけど、ある日の授業にプリンストン大学からゲストスピーカーの教授が来て、ヨーロッパの紛争と和解について学んでいました。話としては、隣の国同士ほど仲が悪い傾向があって、ヨーロッパもその状況を乗り越えようといていますと。後半自由な議論の時間になった時、先生から学問的なアドバイスが貰えるかなと思い、「日中韓の関係がよくなるためにはどのように解決すべきでしょうか」と質問したんです。途端、先生は急に厳しい顔になって”You must go home and think about it by yourself.”⦅「そういうことは家に帰って自分たちで考えなさい。」⦆と言ったんです。ニュアンスとしてかなり敵対的な表現をされたように感じました。それまで他の学生がアメリカやヨーロッパのことを聞いていた時はいちいち丁寧に答えていたのに、アジアの話を持ち出した途端に、これですよ。当時は英語力がなくて何も言い返すことができず。それがすごい悔しかったんです。寮に戻ってから、一橋大学関係者のメーリングリストに、『授業でこんな経験をしました、悔しかったです。』と報告を書き込んだんですね。するとある先輩からすぐに返信があって、「黙っていちゃダメだろう。アメリカは自己主張の国だ、そこで黙ったお前が悪い。そんなときこそ戦うときだ。教えるべき教員に対して質問をしたのに、それに応えず、しかも敵対的な感情を受けた。それについてどう思うか釈明しろとメールを書くんだ」と。アメリカでは先生の評価は学生からの評価で決まるので、「人種的に差別された」と私がどこかに報告しようものならすぐさまその先生の評価が下がる。先生にその旨のメールを送ったら、「非常に申し訳なかった」と謝りの返信が来て。『まったく悪意はなくて、国際問題は自分たちで話し合って解決していくべきなんだということを伝えたかった』と。返信をもらって、ちょっとすっきりしましたね(笑)。その後先輩にも報告したら、『君は今日1つ勝利を手にした、その勢いで行け』と(笑)。そこも、自己主張の国、アメリカの印象的な実体験をしましたね。
イ:ちなみに滞在時に現地で人種差別を受けたりしましたか。
後:実は、留学の最初の週の火曜日の朝(2001年9月11日)に、あの米国同時多発テロ事件がありました。アジア人はむしろそんなに差別はされず、中東などイスラム圏の学生は飛行機に乗ろうとすると止められてしまうのは明らかにありました。実際、春休みに3人のフランス人とカリフォルニアに旅行したのですが、そのうちの1人は国籍がフランスなんだけど、両親の代でアルジェリアから移住しており、見た目が中東出身のように見えました。彼1人だけが飛行機に乗る前に呼び止められてしまい、友人たちと解放されるのを待ちました。結局単なる手荷物と身体検査だけで済みましたが、私たち4人は皆、同じ大学に通う留学生だったのに、彼だけが差別的な扱いを受けたのには、ショックを受けました。
 

-テロ事件を通じて感じる、個々の価値観と温度差。

イ:留学していた時に感じたカルチャーショックはありましたか。
後:アメリカはマルチカルチャー(多文化)であることはイメージとして持っていましたが、実際に行ってみるとそれは綺麗事ではないんだということを強く感じました。例えば同時多発テロ事件のことでいうと、日本の雰囲気としては、テロで亡くなったニューヨークの人たちの追悼式が東京であったり、テロをおこさないようにしようという平和集会を行っていたりして。でも、私がいた大学寮が25階建てで、19階と20階はInternational Program Floors と呼ばれ、留学生や国際的なことに関わりたい学生が住んでいた。パレスチナ出身の男子学生は事件に対してすごく冷めた見方をしていました。『僕からしたら、中東ではいつもテロや紛争が沢山起こっていて。でもアメリカは完全に他人事というか。こんなに大騒ぎして今頃やっとわかったのか。そんなことは世界中日々起こっていて、それを何今さら』と怒りをあらわにしました。色んな立場の人が一緒にいても「仲よくしよう」と口で言うことは簡単だし、日本にいて、人の命が無くなる現場にいなかったが故に能天気に言えてしまうけれど、本当の当事者にとっての平和や相互理解は想像のつかない困難なことだし、単純に他者を認めましょうと言えない人もいるのだという現実を目の当たりにした記憶です。そういったことを直接の経験から知ることができるのが留学の醍醐味でもあります。行ってみなきゃわからなかった。
イ:やっぱり行った時期がテロの直後だったこともあって、日々の会話にも気づきが隠れているんだと考えられますね。
後:寮の近所には移民の人たちが始めたインドカレー店や中華料理店など沢山あったんですが、テロ事件後アメリカの星条旗を店先に掲げるようになっていったんですよね。それは、自分たちがアメリカ側にいるのだ、とわざわざ自己主張しなければいけない状況だったからで、移民世代にはかなりのプレッシャーがあったと思います。当時、ブッシュ大統領が演説で、”you are with us or with them” 『あらゆる人がアメリカの味方か、そうでなければ敵だ』ということを言いました。自分たちに味方しない人は全員悪だと。そういう人々の感情をあおるような演説をテレビでやっていたのが印象的でした。
イ:私たちはほとんど記憶にない・・・ですね。大学に入ってからそういったことを映像で勉強しました。歴史の教科書に文章でちらっと載っていることは知っていましたが・・。動画だとすごくショッキングで。
イ:私も留学先ではじめて詳しく勉強しましたね。
イ:留学当時はまっていたものや休みの間していたことはありましたか。
後:なんだろう・・。日本でもいろんなことをやっていましたが、アメリカに行っているときは、日本語のチューターと図書館で蔵書整理のアルバイトをしてました。アメリカの学生ビザはキャンパス内であれば20時間までアルバイトができるので。授業だけだと友達も限られるかなと思って始めました。
イ:息抜きになりましたか。
後:まあそうですね。ちょっと気晴らしにね、勉強ばかりしていると辛いじゃないですか。日本語を教えるのも日本に興味のあるアメリカ人学生と知りあえて楽しかったですし、図書館の仕事では学年や学部も違う人たちと知り合えたのは面白かったですね。
イ:アメリカに行った人は勉強量が多くて大変と聞くので(笑)。
後:本当にそう。本沢山積んで勉強してましたよ(笑)。
イ:よく留学行くと読まされるって聞きますが、フィンランドはそうでもなくて。ワークライフバランスを大事にといった考えを推奨しているので、図書館は大体5時にはしまってました(笑)。
後:アメリカは24時間開いてることが売りなのに(笑)。私は夜8時で帰ろうって決めていて、遅くても9時には図書館を出るようにしてました。図書館からキャンパス内の寮までまで歩いてたった10分の距離ではあったのですが、当時キャンパスの治安が悪すぎたため、図書館前からガードマンが寮まで付き添ってくれて帰るような日々でした。
イ:日本語のチューターをやってみて友達が増えたりしましたか。
後:はい、増えましたね。教えていた学生が後日、日本に留学することになって、彼のために推薦状を書くなどお手伝いすることがありました。
イ:日本のことについて聞かれて驚いたことはありますか。
後:チューターとしてはいろいろ教えたんですが‥。あれか。同じ英語ライティングの授業で、Heart of Darknessという、イギリス(文明国)からきた人たちが現地化して最終的にその土地の人たちを支配している(文明化)、帝国主義や植民地主義について書いた話が課題図書として与えられて。深いでしょ(笑)。キツイなあ、と思って読みました。でもそこから発想の転換をして、日本の専門家はこの作品に対してどのような見解を持っているのかを英語に訳して書こうと思って。そのテーマでレポートを出したら、これは貴重なインプットだから、独自性を追求していくべきだと先生から褒めて頂けて。みんなが同じものを同じように解釈するのではなくて、それぞれが持ち寄れるものを教室に持ってくること自体が貢献だということを教わりました。
イ:留学中は留学生と過ごすことが多かったですか。
後:アメリカ人といようとしていましたが、自分の会話力が足りないのと、アメリカ人はあんまり海外に興味がない人が多いので、基本は留学生と過ごしてました。留学生に興味があるアメリカ人となんとなく一緒にいたりというのはありましたね。
イ:留学先に日本人学生はあまりいなかったのですか。
後:日本人もおそらく交換留学生で4人くらい同時期の仲間はいたけど、極力日本人だけでの会合はしないようにしてました。そうじゃないとずっと日本人といようと思えばいれちゃうから。
イ:授業・勉強での苦労面は・・課題と?
後:課題がねえ・・もう嫌ですね(笑)。大変だったので思い出したくないから記憶から抹消してますけど、数年前にようやく実家においていたもの全部を捨てることができましたね。あんなにも沢山のものを読んだなあと思って、捨てるのがもったいなかった(笑)。
イ:プレゼンテーションとか多かったですか。
後:プレゼンはいや・・そんなになかったかな。でもグループワークとかは若干あって。アメリカ人と3.4人で話してるとついていけないし、みんなと同じ流れに乗ることはなかなかできないので、独自の目線で意見を言う戦略をとるようにしていました。
イ:留学時にあった、今でも記憶に残っている思い出はありますか。
後:学期の終わりごろ、留学生の友人2-3人と、フィラデルフィアの動物園に一緒に行くことになったんです。今考えるとバスとか乗ればよかったんだけど、歩ける距離だからと1時間くらいかけて歩いたんですよね。途中少し治安の悪い地域を通る羽目になってしまい、ハラハラしながらやっとの思いでたどり着いた動物園は、ボロボロ(笑)。実はフィラデルフィアはいろんな映画の舞台になっていて、道途中にはロッキーが練習していた階段とか、ガッツポーズした道とかあったんです。今も覚えている、スリリングな思い出ですね。
あ、そういえば思い出したんですが、そのうちの一人のギリシャ系フランス人の女性と留学から8年後に再会したんですよ。当時、彼女は休暇で日本に遊びに来ていて、私は長男の出産予定日3日前でした。原宿で一緒にご飯を食べたんです。そろそろ生まれたりして、なんて笑って話していたら、帰り道の電車で本当にお腹が痛くなっちゃって。そのまさか会ったその日の夜中に生まれたんです。その友人は翌日病院まで会いに来てくれました。『私たち昨日はのんきに餃子食べてたよね』なんて、かなりびっくりしてました。ご縁ですよね。そういう出来事も、海外で変な状況を共有した友達ならではのことかな、と(笑)。
イ:アメリカにいる間の交通手段は?
後:大体バスか自転車でした。幸いフィラデルフィアは大都市なので、キャンパスの中は歩けるし、街中まで行けば地下鉄も走ってました。
イ:大学によっては、提携先が立地のいいところにあるわけではないですよね。私の友達は車がないとどこにも行けないような場所に留学していて、基本はずっとキャンパスの中で過ごしていたみたいです。
後:環境のギャップがつらかったりしますよね。日本にいれば気晴らしにみんなと離れてお茶するとか、一人でどこでもでかけることができるのに、留学先でそういうことができないのは結構ストレスになりますよね。
 

-日本人留学生の永遠のテーマ、「食事」について。

イ:食事は合いましたか。
後:留学に行って5キロ太りました(笑)。基本カフェテリアいくと置いてある飲み物は、コーラとかスプライトとファンタ。お茶があっても砂糖入ってるし。普通に食べてると健康を害しますよね。なので台湾人の子と友達になって、中華風の食事を作ったりしました。お互いの食を素直に美味しいって言える。アジア人は食で繋がれますね。コメと野菜と魚と塩気があればやっていける。
イ:私たちはゼミの研修でロサンゼルスに行ったのですが、食事はサンドイッチとかホットドックとか出先で食べれるものがほとんど同じで。日本食にありつけた時はとても感動しました。
後:体が受付なくなっていくよね。アメリカには発酵食品がないから。留学中の食事は大きなテーマかもね。これが乱れると結構きつい。中華街があって、フードトラックで売っていた3ドルのごはんばかりを食べてました。もう少しまともな和食が食べたかったですね・・。
イ:北欧はあまり。
後:たまに野菜食べたくてお店に行ってましたが、1人分が多すぎて食べきれない。日本の野菜に慣れていると、あまりおいしくなくて、これ農薬漬けじゃない・・?っていうのがあったりとかね。海外だといいものはすごく値段がしますからね・・。
イ:(留学後からこれまで)特にこの交換留学の経験を通じて、今の自分自身に繋がっていることはありますか。
後: 1つ目は自分の身は自分で守るということですかね。それは精神面では、受けた授業に言葉のきつい教授がいたこととか。日本にはそんなに嫌味な先生はいないと思うんですが、人種とか国籍で何か言われる経験は全くなかったから。そういうときは自分で戦わなきゃいけないなと。もちろん、大多数は思慮深く親切な教授ばかりでしたよ。自分の言動がいつの間にか立場の弱い人を傷つけていないかどうかも意識的に考えるようになりました。
2つ目は、やっぱりチャレンジすればしただけ見える景色がある、だからできるならチャレンジしたほうが良いということですね。大変なことはいっぱいありましたよ。課題に追われて泣きそうになったとかね。20歳だった自分に何と声をかけるかなと考えると、「行ったほうがいいよ」と伝えると思います。行かなかった自分は存在していないからわからないけど、もし比べるのなら行かなかった自分より行った今の自分の方が絶対にいいと思う。人生で1回しか行くことができないから、パターンAとBを比べることはできないんですよね。色んな人が、挑戦したほうがいいはずだっていますよね。
それに、挑戦しないほうが良かったという人に私は会ったことはないですね。もちろん、細かいことは調べておくべきですよ。授業がどのくらい大変なのか、どんな生活スタイルになるのか、とか。ある程度分かっていれば、じゃあ、あらかじめ似た授業は取っておこうとか、英語が心配だから語学学校に通ってみようとか、先輩に話を聞いたら治安が悪いらしいからこのエリアを避けた寮にしようとか。盲目に裸で飛び込むのではなくて、実行(やる)前提で、心配なことは何かを書き出して、一個一個具体的に解決していくこと。そうしたら自然と怖さも減るし、やりがいだけが残ると思いますね。
イ:そうやって事前に不安をつぶしたからこそ、挑戦に積極的になれたと。
後:そうですね。楽ではありませんでしたが、やれる限りの不安はつぶしたはずだという自負があったので。
イ:後藤さんにとって、アメリカの交換留学時代を振り返るとどうですか。
後:あの辛さを乗り越えたから、なんとかなるよなって思えました。自分の周りには交換留学生とか仲間もいるんだけど、留学生ってなぜだか・・孤独ですよね。全く同じ目標で来ている人はいない。ちょっとしたことで共通点がある人はいても、全部を共感できる人はもはやいないわけです。それこそが個性を出していくということだと思うし、大人になっていくとそういう人と違う面こそが強みになるから、準備段階だったのかなと。そういうことに気づけた時期だったのではないかと思います。
イ:国際交流基金で働いていて、留学経験が役に立ったと感じたことはありますか?
後:たくさんあります。基本的なところだと、英語の語学力や、異文化の人に英語でも日本語でも分かりやすい言葉で語りかけるコミュニケーション能力は役に立ちます。他にも、例えば出張で海外の空港に一人で降り立っても、先進国であれば当然1人で動けますし、新興国は現地の人の助けを得ながら動きますが、その際にも緊張感をもって身を守りながら行動することは治安の悪い当時のアメリカのキャンパスに暮らしたことで鍛えられました。一言で言えば、度胸がついた、ということでしょうか。これからの時代、あらゆる仕事が海外とつながっていますし、国内にいても海外にルーツを持つ人と共同作業することは多くなると思います。留学で鍛えられる知識、マインドセット、スキルはどれも長い人生の糧になることは間違いないと思います。
 

-最後に後藤さんからのメッセージ

後:もう、留学は行くべしです。
イ:留学ってある意味、一人になることが良い点ですよね。
後:そういうところで自分だけで勝負をしてく。鍛えられますよね。大学の先生をしているある知人がいるのですが、この方が、「最近、愛さんのいう意味が分かりましたよ」と。教え子で留学に行った学生たちが、行く前と後で変わってる。自分の頭で考えるようになって帰ってくるそうです。この方も、留学は絶対行ったらいいと思っているそうです。留学という経験は、自分の常識を外してくれるのでしょう。
イ:金銭面で諦めている学生がすごく多いんですよ。
後:それも戦略次第ですね(笑)。
イ:かならずしもみんなが応援してくれるわけではないですよね。留学は彼女が行ったことがいなかったから、すごく責められて。でもやると決まってからはもう応援するしかなくなって。
後:相談された方も、一体どういうところに行くのか、行った先に何があるのかわからない、という不安があるのかもしれないね。相談は、経験者で、かつ応援者にもちかけよう、っていうのが鉄則ですよ。だって、誰かに相談を持ち掛けても、その人自身の世界観でしか、答えられないから。留学していない人に聞いたってわかるはずがないですよね。経験をしていてかつ成功している人に相談を持ち掛ける。私の場合だと、留学に行くときは回りには賛成してくれる人がほとんどだったのは幸いだったのですが、子どもを連れてインドネシアに駐在に行くというときには、いろんな人から本当にいろんなことを言われました。「いいベビーシッターがいればまわるんじゃない、行ったらいいじゃないか」と言ってくれた人がいたおかげで踏み出せたわけです。
例えば、留学を親に相談して反対されました、という学生に会ったことがあります。じゃあその親ご本人は、留学に行ったことがあるのですかと聞くと、行ったことがないと。それななら、親に相談したって、親御さんだって分からないよね。わからなくても応援してくれるならそれを励みにしていけばいいけれど、親の言う通りばかり聞いていたら、いつまでもそれより外の世界には進めない。だから親御さんには「心配ありがとう」と伝えて、複数の経験者に話を聞きに行くのがいいと思う。
人類って遺伝子を繋いで続いてきた。同じ個体の人間が何百年も生きるのではなく、子どもという次の世代が生まれて成長していくのは、上の世代の良いことを引き継ぎつつ、新しいことにチャレンジするためなんじゃないか、って思ってるんです。だから、若い人たちが親と同じ価値観で同じスタイルで生きていたら、意味がないとは言わないけれど、これだけ変化が激しい面白い時代に生まれたのだから、せっかくだったら、親がやってきたことを自分たちがどれだけ拡大させ、さらに成長できるかということだと思うんです。
なので、もし応援してくれない親御さんなのだとしたら、親の世界観はそこまでなんだなって一つ理解して。それじゃあ、「一体、自分ならどこまでやれるのだろう?」というに意識を向けてほしい。ぜひみなさんにはそういう心意気でチャレンジしてもらいたいなと思います。

留学は自分の人生観、キャリア観が大きく変わる貴重な経験です。
京都大学 大学院総合生存学館(思修館)准教授
関山 健 氏
失敗は成功のもと
フードダイバーシティ株式会社
ヨコヤマ・アンド・カンパニー株式会社
横山 真也 氏
留学は行くべし
後藤 愛 氏
楽しかったこと、辛かったこと、全てが自分の糧になります
東洋大学国際学部国際地域学科教授
岡本郁子 氏
「青年の船」が人生の船出
一般社団法人 グローバル教育推進プロジェクト(GiFT)
鈴木大樹 氏
『世界一周して千人カット』美容師の桑原淳さんへインタビュー
美容室 Up to You / サロカリ代表 / 超超エリート株式会社 代表取締役
桑原淳 氏